2006年 10月 11日
く~っ!! フラナリー・オコナー (解説あり) |
私は書くのが遅い。
宿題もある、本も読まねばならない、でも書くのがちっとも進まない!
自分のトロさと妙なこだわりで、ひどい目に遭っている。(←自業自得)
私を苦しめているのは、フラナリー・オコナー。
皮肉と聖書の暗喩と暴力人のアホさ加減がぎゅっと詰まった、
短いくせにとっても濃くて深くて暗くて、ちょっと解放感&希望もある、
解説なしではお手上げの作品。
日本語で読めば少しは楽なのかと思ったが、
webで翻訳を見たらますます混乱したりして。はぁぁぁぁぁぁ。
でも、桐野夏生が好きな方にはお奨め。(ご本人も読者らしい)
人生の半分を病と闘いつつ描いた著者の絶筆
「パーカーの背中」は特にすごい。
興味のある方は以下のあらすじ&解説をどうぞ。
さて・・・戻るか。いや、シャワー。あ、コーヒーでもいれよ!(毎度の逃避行動)
「パーカーの背中」
パーカーはアイデンティティのない男。
仕事も学校も長続きしない。信仰心もない。
全身に入れてるタトゥが唯一の自分らしさ。
本名には「オバーディア」という、
旧約聖書の中の偉大なる預言者の名前がついているが
激しく嫌っており、この名を使った同僚を殺しかけたこともある。
そんなパーカーが結婚したのは、サラ・ルース。
熱心なキリスト教原理主義者*。
しかも不器量でパーカーのタトゥを「無駄中の無駄!」と言い切る。
何かに惹かれて一緒になったはずなのに、
サラ・ルースにタトゥのことを攻められ喧嘩ばかり。
「俺、なんでこの女と結婚してるんだろう?」と自問自答する日々だ。
不満な毎日で、膨れていくのは新しいタトゥへの欲求。
でも、もう残るスペースは背中が最後。
「サラ・ルースが文句の言えないデザインにしよう!」と決めたはいいが、
これという絵が浮かばず、パーカーは悶々と悩む。
ある日、パーカーは雇い主の大事にしているトラクター**で、
これまた雇用者が大事にしている古い木に激突してしまう。
靴は飛び散って裸足。
燃え上がる木の中でパーカーは神を見る***。
「そうだ、背中にイエスキリストの顔を彫るんだ!!!」
パーカーはトラクターを放りだし、町のタトゥ屋へ走るのだった・・・
<理解に苦しんでいる人への一言ポイント>
* 聖書は全て事実と信じている宗派。
敬虔なカトリック信者の著者は、これを異端とみている。
** トラクター=車=1950年代では「金」または「文明化」の象徴。
***燃え上がる木は、聖書でモーゼが神を見た場面の象徴。ここでは神のシンボル。
燃える芝の中からモーゼに、
「靴を脱ぎ、私の民を連れて父アブラハムの国へ『帰れ』」と告げる。
神を見るシーンは、ラストで起こる3つの皮肉の元になっている。
ひとつめは、せっかくのタトゥで妻を返って怒らせてしまうという皮肉。
ふたつめは、熱心な信徒の妻でさえ見たことがないのに、
信仰心のないパーカーが神を見、声をきくという皮肉。(異端批判)
みっつめは、車の修理代を払うことになってしまうという皮肉。(社会批判)
木と車の衝突は、「昔と今の衝突」を暗示している。
つまり、著者は金中心で信仰心を忘れた世の中を非難しており、
その代表であるパーカーに、文字通り代償を払わせるのだ。
ついでに言えば、神を信じていないパーカーがキリストを背負い、
おまけにそのキリストに、気になっていた自分の背後を
常に監視してもらうことになったという皮肉もある。
他の作品にも共通しているテーマは、
「何もかも捨てて赤子のように裸にならないと、
神からの啓示は理解できない」
「Good Country People」 の場合も、
Hulgaのめがねがなくなって初めて、
「イエス・キリストが水面を歩く」姿を見る。
(ちなみにこれも聖書の中にあるエピソード)
パーカーが本当の意味で神の啓示に気づくのも、
ラストの「赤ちゃんのように」泣くところ。
逆に言えば、「信仰心のないおろかな人々は、
全てを失った瞬間に神の偉大さを理解する」、これが共通点となる。
宿題もある、本も読まねばならない、でも書くのがちっとも進まない!
自分のトロさと妙なこだわりで、ひどい目に遭っている。(←自業自得)
私を苦しめているのは、フラナリー・オコナー。
皮肉と聖書の暗喩と暴力人のアホさ加減がぎゅっと詰まった、
短いくせにとっても濃くて深くて暗くて、ちょっと解放感&希望もある、
解説なしではお手上げの作品。
日本語で読めば少しは楽なのかと思ったが、
webで翻訳を見たらますます混乱したりして。はぁぁぁぁぁぁ。
でも、桐野夏生が好きな方にはお奨め。(ご本人も読者らしい)
人生の半分を病と闘いつつ描いた著者の絶筆
「パーカーの背中」は特にすごい。
興味のある方は以下のあらすじ&解説をどうぞ。
さて・・・戻るか。いや、シャワー。あ、コーヒーでもいれよ!(毎度の逃避行動)
「パーカーの背中」
パーカーはアイデンティティのない男。
仕事も学校も長続きしない。信仰心もない。
全身に入れてるタトゥが唯一の自分らしさ。
本名には「オバーディア」という、
旧約聖書の中の偉大なる預言者の名前がついているが
激しく嫌っており、この名を使った同僚を殺しかけたこともある。
そんなパーカーが結婚したのは、サラ・ルース。
熱心なキリスト教原理主義者*。
しかも不器量でパーカーのタトゥを「無駄中の無駄!」と言い切る。
何かに惹かれて一緒になったはずなのに、
サラ・ルースにタトゥのことを攻められ喧嘩ばかり。
「俺、なんでこの女と結婚してるんだろう?」と自問自答する日々だ。
不満な毎日で、膨れていくのは新しいタトゥへの欲求。
でも、もう残るスペースは背中が最後。
「サラ・ルースが文句の言えないデザインにしよう!」と決めたはいいが、
これという絵が浮かばず、パーカーは悶々と悩む。
ある日、パーカーは雇い主の大事にしているトラクター**で、
これまた雇用者が大事にしている古い木に激突してしまう。
靴は飛び散って裸足。
燃え上がる木の中でパーカーは神を見る***。
「そうだ、背中にイエスキリストの顔を彫るんだ!!!」
パーカーはトラクターを放りだし、町のタトゥ屋へ走るのだった・・・
<理解に苦しんでいる人への一言ポイント>
* 聖書は全て事実と信じている宗派。
敬虔なカトリック信者の著者は、これを異端とみている。
** トラクター=車=1950年代では「金」または「文明化」の象徴。
***燃え上がる木は、聖書でモーゼが神を見た場面の象徴。ここでは神のシンボル。
燃える芝の中からモーゼに、
「靴を脱ぎ、私の民を連れて父アブラハムの国へ『帰れ』」と告げる。
神を見るシーンは、ラストで起こる3つの皮肉の元になっている。
ひとつめは、せっかくのタトゥで妻を返って怒らせてしまうという皮肉。
ふたつめは、熱心な信徒の妻でさえ見たことがないのに、
信仰心のないパーカーが神を見、声をきくという皮肉。(異端批判)
みっつめは、車の修理代を払うことになってしまうという皮肉。(社会批判)
木と車の衝突は、「昔と今の衝突」を暗示している。
つまり、著者は金中心で信仰心を忘れた世の中を非難しており、
その代表であるパーカーに、文字通り代償を払わせるのだ。
ついでに言えば、神を信じていないパーカーがキリストを背負い、
おまけにそのキリストに、気になっていた自分の背後を
常に監視してもらうことになったという皮肉もある。
他の作品にも共通しているテーマは、
「何もかも捨てて赤子のように裸にならないと、
神からの啓示は理解できない」
「Good Country People」 の場合も、
Hulgaのめがねがなくなって初めて、
「イエス・キリストが水面を歩く」姿を見る。
(ちなみにこれも聖書の中にあるエピソード)
パーカーが本当の意味で神の啓示に気づくのも、
ラストの「赤ちゃんのように」泣くところ。
逆に言えば、「信仰心のないおろかな人々は、
全てを失った瞬間に神の偉大さを理解する」、これが共通点となる。
by goalaska
| 2006-10-11 15:18
| 本、あれこれ